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◆「刀伊(トイ)の入寇(ニュウコウ)」って何?―――2018-04-02-398


●「刀伊(トイ)」とは?―

 寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した海賊の事です。高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷を指すtoiに、日本文字を当てたものとされている名称です。

 刀伊(トイ)の入寇の事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しいそうです。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がないようです。 

●日本沿岸での海賊行為頻発―

 9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸でありました。

●侵攻の主体―

 刀伊に連行された対馬判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそかに高麗に渡り情報を得ました。 長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこと、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害されていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったこと等の情報を得て帰国しました。

●日本海沿岸部における 10 - 13世紀までの「女真族」―

 「刀伊の入寇」の主力は「女真族」であったと考えられています。女真族とは、12世紀に「金」を、後の17世紀には満洲族として「後金」を経て「清」を建国する民族であります。

 近年の発掘によると、10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側にかけての沿海州の日本海沿岸部には女真族の一派が進出していた時期で、女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事していたものと考えられてい
ます。

 10世紀前後に資料に現れる「東丹国」や「熟女直」の母体となった人々で、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った女真族と思われる集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであったと考えられています。

 13世紀初頭に蒲鮮万奴は中国東北部に「大真国」を建てたが、これら日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、この時期にウラジオストク周辺や沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。

 しかし、日本海側沿岸部に進出した山城群は1220年代に「モンゴル帝国」軍によってことごとく陥落したようで、近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構はその後使用された形跡がほとんど確認できず、これによって日本海沿岸部に進出していた女真グループは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われます。

 替わってモンゴル帝国に早期に従属したアムール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフトしたものと考えられます。

 また、いわゆる「元寇」(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を警戒していたことが知られていますが、これに反して「元」朝側の資料でアムール川以東の地域の地理概念上に日本は含まれていなかったようでありました。この認識の差異も内陸のアムール水系への交易路のシフトが大きく原因していることが推測されています。

●「刀伊の入寇」までの北東アジア情勢―

 926年に「契丹」によって「渤海」が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民が鴨緑江流域に建てた「定安国」も契丹の聖宗に滅ぼされました。当時の東北部にいた「靺鞨」・「女真」系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していました。

 10世紀前半の「契丹」の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまいました。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からでありました。

 1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった「于山国」がこれらの女真集団によって滅ぼされました。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられます。

 しかし、当時の「女真族」の一部は「高麗」へ朝貢しており、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行うことはほとんど前例がなく、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて「高麗人」だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであると主張しました。また『小右記』でも海賊の中に「新羅人」が居たと述べているのでした。

●対馬への襲撃―

寛仁3年3月27日(1019年5月10日)、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返しました。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れています。

●壱岐への襲撃―

 賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らしました。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに(たったの?!)147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かいますが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまうのでした。

 藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとしました。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦しました。そして賊徒を3度まで撃退しましたが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かったのでした。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落してしまいました。この時、嶋分寺は全焼ししてしまったのです。

筑前国怡土郡への襲撃―

 その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようとしましたが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により撃退されました。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月26日)に肥前国松浦郡を襲ったのですが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退するのでした。

●高麗沿岸への襲撃―

 藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行うのでした。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという蛮行を繰り返しました。しかし賊は高麗の水軍に撃退されました。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還されたのでした。

●高麗との関係―

 上述の虜囚内蔵石女と多治比阿古見は、高麗軍が刀伊の賊船を襲撃した時、賊によって海に放り込まれ高麗軍に救助されました。金海府では白布の衣服を支給され、銀器で食事を給されるなど、手厚くもてなされて帰国した。しかし、こうした厚遇も、かえって日本側に警戒心を抱かせることとなりました。

 『小右記』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、「新羅」は元敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航を戒める大宰府の報告書を引用していました。

 日本は「宋」との関係が良好になっていたため、"外国の脅威をあまり感じなくなっていた"ようである。日本と「契丹(遼)」はのちのちまでほとんど交流がなく、密航者は厳しく罰せられました。

●対馬の被害―

 有名な対馬銀山も焼損し、被害は、対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女・子供244人)でありました。またこの時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還できました。

●壱岐の被害―

 壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59人の、合計148人が虐殺されました。さらに、女性は239人が連行されました。壱岐に残った民は、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人でありました。

 なお、この被害は壱岐全体でなく、壱岐国衙付近の被害とみられます。記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったといわれます。この時幕府は外敵に対して(現代平和ボケの如く)たいして対策も取らずに のんびりとしていました。(Wikipedia参照・転載)

●朝廷の対応―

 当初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は半信半疑でありました。

 結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月16日)、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからでありました。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国しました。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったといわれます。

 この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後でありました。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかったのでした。

 その上、撃退した藤原隆家らに何ら恩賞を与えませんでした。これは平将門の乱、藤原純友の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなったのでした。ただし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べましたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとされています。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出されたともされているようです。

藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病[21]治療のために大宰権帥を拝命して大宰府に出向していました。専門の武官ではなかったが、撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げることとなりました。寄せ集め集団とは言え、九州武士団および、東国から派遣された武士団達の討伐に活躍した記録が残されているようです。
『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5、7、8・第17、23、27紙

             "『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5、7、8・第17、23、27紙"  
 その後はモンゴル帝国(大元ウルス)・高麗連合軍による文永の役(ブンエイノエキ・1274年)、と弘安の役(コウアンノエキ・1281年)という「蒙古襲来」を迎えましたが、この時は嵐(神風)というより武士の果敢な活躍で乗り越える事が出来ました。
モンゴル騎兵

               "モンゴル騎兵"                  






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●マイ 鉛筆画作品:(旧作)  https://smcb.jp/albums/2185722 ―ご高覧下さいませ。―
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  【  マイフォト 】

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                狭井神社境内
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             外鎌山山頂の夕景(奈良県桜井市)       
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             高野山 奥の院へ(和歌山県)

2018-01-23 002 065

              高野山巡霊
2018-01-23 外鎌山登山

外鎌山(293m:桜井市忍阪)―大和三山等の展望良好!
2018-01-23 002 071

            加太港海岸夕景二月四日
2018-01-23 002 048

  加太海岸風景(和歌山市)
2017-02-18 001 011

    高見山の樹氷風景(奈良県)

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           初瀬川(背景には外鎌山)―桜井市

2009-01-01 001 005
        海柘榴市(海石榴市:ツバイチ)古代の国際的な市―奈良県桜井市金屋  

2017-12-10 001 002

              大神神社(奈良県桜井市)

2017-10-17 002 012



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☀   雨の日には雨の中を
            風の日には風の中を  
                     歩こう。 ☽

❀  冬の樹氷 春の草花 夏の新緑 秋の紅(黄)葉 
                       四季折々の美しい輝きに癒される。 ❀

 
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《 日誌MEMO(予定&結果・感想等 ) 》 -2018年(平成30年)-


            (※二月は徐々に体調普通に戻る、仕事は後半好調に進む。NB学習不調。)
【3月】
3月01日 (木)午前中雨・夕方仕事。近所W =    5000 歩。☆(受注有)
3月02日 (金)荷受、仕事。近所Woking=      15400 歩。☆☆△●12-1半=収入有(八)
3月03日 (土)仕事。近所W=      3900歩。▲
3月04日 (日)休日:Trekking。夕刻仕事。近所W= 9100歩。☆
3月05日 (月)仕事。近所W=      3600歩。▲
3月06日(火)荷受、仕事。近所Woking=  16400歩。☆☆
3月07日(水)仕事。近所W=      5300歩。☆
3月08日(木)仕事。近所W=      4600歩。▲
3月09日(金)荷受、仕事。近所Woking=   12400 歩。☆☆
3月10日 (土)仕事。近所W=      5100歩。☆
3月11日 (日)休日:Trekking。夕刻仕事。近所W= 3400歩。▲
3月12日(月)仕事。近所W=      5200歩。☆
3月13日(火)荷受、仕事。近所W=      14300 歩。☆☆△
3月14日(水)休暇 。和歌山県・高野山奥の院ウォークW=21200 歩。☆☆☆△
3月15日(木)おくちゃん(=おくと)さん達と外鎌山登山。夕仕事。近所W=11600歩。☆☆△
3月16日(金)荷受、仕事。近所Woking= 5500 歩。☆
3月17日(土)仕事。近所W= 5200 歩。 ☆
3月18日(日)仕事。近所W=  4300 歩。▲
3月19日(月)仕事。近所W= 5100 歩。☆
3月20日(火)荷受、仕事。近所W=         7800 歩。☆   
3月21日(水)仕事。近所W= 5400 歩。☆
3月22日(木)O・Sさん達と桃尾の滝・大国見山登山(雨天中止 )。夕仕事。近所W= 4700 歩。▲
3月23日(金)荷受、仕事。近所W= 5100 歩。☆
3月24日(土)仕事。外鎌山登山・近所W= 12800歩。☆☆△
3月25日(日)仕事。近所W=      3800歩。▲
3月26日(月)仕事。近所W=      5200歩。☆
3月27日(火)荷受、仕事。近所W=         16700歩。☆☆ 
3月28日(水)仕事。近所W=     4600歩。▲
3月29日(木)仕事。近所W=     5100歩。☆
3月30日(金)荷受、仕事。近所Woking= 7400歩。☆( Mさん・Y氏から励ましの Mail&Telあり)
3月31日(土)仕事。近所W=     5700歩。☆
             (※三月は、体調普通。仕事やや不調。N B不調・・登山5回 )

4月01日(日)仕事奮励努力。近所W=  4900歩。▲
4月02日(月)仕事。近所W=  歩。
4月03日(火)荷受、仕事。近所W= 歩。
4月04日(水)休日。大国見山登山。夕仕事。近所W=  歩。
4月05日(木)仕事。近所W=   歩。
4月06日(金)荷受、仕事。近所W= 歩。
4月07日(土)仕事。近所W=   歩。
4月08日(日)仕事奮励努力。近所W=  歩。
4月09日(月)仕事。近所W=  歩。
4月10日(火)荷受、仕事。近所W= 歩。
4月11(水)仕事。近所W=  歩。
4月12(水)仕事。近所W=  歩。
4月13日(金)荷受、仕事。近所W= 歩。
4月14日(土)仕事。近所W=   歩。
4月15日(土)仕事。近所W=   歩。(年金)



◆なら山遊会イベントについてー仕事等の都合でしばらくは中止と致しました。^^;再開の節は皆様またご参加宜しくです。※登山イベントアップ再開は事情にて早くて四月以降となります。ご了解下さいませ。



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【myPFOTO】

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              古代のつば市―桜井市金屋           
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          大和の夕焼け空―奈良県桜井市三輪山麓より
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               加太湾の夕景