kabuの健康TABILOG

シニアの健康日記ですが、健康に関連したモノ・食品・サプリ等や身体に良い運動、アウトドア関連・軽登山・トレッキング・寺社&磐座の散策ハイク等を主な記事内容にして行きたいと思います。そして、訪問者や閲覧者に少しでもお役に立てれば幸いに思います。初心者なのですがこのサイトと共に自分も成長して参りたいと思います。今後とも応援宜しくお願い申し上げます。

カテゴリ: ●古代史

CA3C0006

                    八経ヶ岳-奈良県
●古代史―「 八咫烏 」(ヤタガラス)とは何か?―     ――――2018-06-12--469

◇一般的に「八咫烏」とは何でしょうか?~
ヤタガラス

                   ヤタガラス
・各事典を調べてみると・・。

 神武天皇の建国説話にみえる烏。天皇が熊野から大和に進入しようとして山中で道に迷ったとき,アマテラスオオミカミ (『古事記』ではタカギノカミ) が八咫烏をつかわして,天皇の軍を導き,山中を抜け出させたという。「やた」とは「大きい」という意で,大烏のこと。古代日本人が烏にある種の霊能を認めていたことを示すものと思われる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)

・1 日本神話で、神武天皇の東征のとき、熊野から大和へ入る山中を導くため天照大神(あまてらすおおみかみ)から遣わされた烏。新撰姓氏録は、鴨県主(かものあがたぬし)の祖である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものと伝える。

・2 中国古代の説話で、太陽の中にいるという3本足の赤色の烏。また、太陽の異称。

・3 朝賀・即位などの際に庭上に立てる、金銅製の烏を先端につけた幢(はた)。烏形幢(うぎょうどう)。
「例の―、見も知らぬものども」〈讃岐典侍日記・下〉(デジタル大辞泉より)

記・紀神話にみえる神。
 「日本書紀」では頭八咫烏とかき,神武天皇東征の際,天照大神(あまてらすおおみかみ)の使神として大烏となってあらわれ,道案内をしたとある。鴨(賀茂)県主(かものあがたぬし)の先祖とされる。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plusより)

やたがらす【八咫烏】:
 記紀の神武天皇東征譚にあらわれる鳥。神武天皇の軍が熊野,吉野を越えて大和へ入ろうとするとき,ヤタガラスが天照大神(《古事記》では高木大神)の命で派遣され,先導をつとめたとされる。また大和の土豪兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)平定のさいはこの烏が使者に立っている。ヤタガラスは山城の鴨(賀茂)県主(かものあがたぬし)の先祖とされている(《日本書紀》《古語拾遺》)。同氏は主殿の職を世襲したが,その職掌のうちには〈車駕行幸供奉〉(《延喜式》),大嘗祭における〈秉燭照路〉(《北山抄》)ということがあり,神話と祭式の対応関係を示すものと考えられる。
(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版についてより)

  ①記紀、風土記の所伝に見える烏。神武天皇東征の途中、熊野から大和への道に迷った時に天上より派遣され、道案内をした烏。神皇産霊尊かみむすびのみことの孫である鴨建角身命かもたけつのみのみことの化身と伝えられ、奈良の八咫烏神社にまつられる。やたのからす。
② 中国の伝説で、太陽の中にいるという三本足の烏。やたのからす。 〔和名抄〕(大辞林 第三版より)

やたがらす

 記紀神話に出てくる大烏、あるいは頭の大きな大烏。『日本書紀』では、頭八咫烏(やたからす)という。東征の際、高木神(たかぎのかみ)(記)、天照大神(あまてらすおおみかみ)(紀)によって神武(じんむ)天皇のもとに派遣され、熊野(くまの)から大和(やまと)に入る険阻な山中を導く。また紀では、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)の帰順勧告に派遣される。鴨県主(かものあがたぬし)の祖である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものともいい(『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』『古語拾遺(こごしゅうい)』)、その子孫は葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)ともいわれる(紀)。
 烏のもつ意味については、日神の使者、熊野のみさき、トーテム動物のほか戦陣で危急を救う鳥などと説かれているが、いずれにせよ烏が神秘な能力をもつことを示す。この話を神武伝承に結び付けた氏族については、主殿寮(とのもりづかさ)の殿部(とのべ)として葛野県の鴨県主とするのが通説であるが、大伴(おおとも)氏とする異説もある。[吉井 巖]
『佐伯有清著『ヤタガラス伝説と鴨氏』(『新撰姓氏録の研究 研究編』所収・1963・吉川弘文館)』
(出典 小学館 日本大百科全書ニッポニカより)

【神武天皇】より
…途中,宇佐,筑紫,安芸,吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り,そこで長髄彦(ながすねひこ)と戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に迂回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑(こわく)されるが,天津神の助力によって危地を脱し,天津神の派遣した八咫烏(やたがらす)の先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。ここで兄猾(えうかし),弟猾(おとうかし)を従わせ,以後,忍坂(おさか)の土雲八十建(つちぐもやそたける),長髄彦,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)らの土着勢力を各地に破り,大和平定を成就する。…※「八咫烏」について言及している用語解説の一部を掲載。
 (平凡社 世界大百科事典 第2版)


☆【3本脚の「ヤタガラス」を捕獲、神話裏づけ】―島根・出雲産大    ( 嘘ニュース)
偽三足ヤタガラス

                   偽三足ヤタガラス
・世界で初めて公開されたヤタガラス~

 島根県立出雲産業大学農学部は31日、足が3本あるカラスの捕獲に成功したことを発表し、世界で初めて報道陣に公開した。日本神話にも登場するこの3本脚のカラスは「八咫烏(ヤタガラス)」の名で知られており、長らく自然界には存在しないと言われてきた。出雲産大では今後つがいとなるメスのヤタガラスの捕獲を急ぎ、人工繁殖につなげたいとしている。

 オスのヤタガラスを飼育しているのは、農学部の秋鹿大和(あいか・やまと)教授の研究グループ。今年3月、生ゴミ置き場に集まっていたカラスの中に脚が3本の個体がいることに気づいた市の清掃員が同大に持ち込んだ。その後秋鹿教授による遺伝子解析の結果、一般的なカラスとは別種の個体であることが判明。日本神話に登場する3本脚のカラス、太陽の化身とされる「ヤタガラス」の可能性が高いと結論づけた・・。
(「朝日虚構新聞」より: これは*嘘ニュース*です^^;)



◇秘密結社としての『八咫烏』~

 『八咫烏』は「JAL123便事件」にも関連したのではとの噂もありますが、これについては特に調べていません。

 教科書にも載らない知る人ぞ知る、「明治天皇すり替え説」は、薩長の裏にイギリスがいたこと、薩長の中心メンバーに朝鮮部落(田布施、多布施地区)出身の人間が多くいたとのことなどから、日本人が思いも寄らないことであるだけに、かえって信憑性が高いものと思われます。だからと言って天皇制を否定していません。

 日本の元首は儀式などを経て精神性の極めて高い人がなるべきで、どこかの国の狂った大統領のような人間が元首になる等とは別次元でたまったものではありません。

 『八咫烏』は陰陽師のように人知を超える「秘儀」というか強大な力があるのかも知れません。

 その『八咫烏』と頭山満(明治のアジア主義者の巨頭)の国龍会は今は合流し、日本を守っているようです。

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【頭山 満】

 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。「玄洋社」の総帥。号は立雲。

 「玄洋社」は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。

 一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。

 条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

 彼が作った黒龍会(改め白龍会)が同盟関係にあり中国の地下組織、ロシアの諜報組織、アメリカの良識派のペンタゴン、CIA、FBIなどの世界の諜報組織が一致協力しホワイトドラゴンとして行動しているのなら、最近のガイトナー逮捕、パパブッシュの拘束、ビルゲイツの逮捕、世界の金融トップ層の116人もの辞職(解任)なども納得出来ることになります。
(ウイキペディア 「頭山 満」-http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
より転載)
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◇【八咫烏】について~

 日本で聖書の故事が起きるとは… 出エジプトが福島に変わります。有無を言わさず強制移住を迫られる人々が気の毒でありました。今、難儀の民を導く 真の指導者の出現が望まれます。

 日本の国体を守る秘密結社である "八咫烏" の事を、ちょっとだけ書くと、秘密結社なのだから 何も判らなくて当然ではあります。西洋と同様に3000年の歴史がある秘密結社。任務は天皇を守る事です。西洋の王様を守るフリーメイソンと根は同じです。

 彼らは大昔から現代まで天皇を守り続けていました。極秘の組織なので当然メンバーも謎に包まれているのです。明治時代までは表の天皇を守り続けていました。しかし 明治天皇はイギリスによって本家の血筋とは違う皇族にすり替えられました。

 その為「八咫烏」は裏にいる本当の天皇(日々 皇居・京都御所の奥深い処で祭祀を行う神霊的天皇)を極秘に守り続けているのです。その権力はかなり強力だそうです。京都白足袋組(朝から白足袋の和装で過ごす旦那衆。数ある有職職人達の頭領)と呼ばれる人達も結社の方かも知れません。

 日本の国家的な根源に関わる基幹産業を、警察、法律、民族と云ったモノの壁を全部越えて独自で動ける組織。独自の資金力もあって、通帳も戸籍も無りません。三次元的に言えば死人扱いかも。でもちゃんと生きているし官僚でもなく、民間人でもないのです。正体不明の人達が地下に潜って仕事をしている訳です。天皇の民の難儀のの為動かない訳がありません。

 彼らは何処に住んでいるのでしょうか。地下に住んでいるのでしょうか。日本の国体を守る為の独特の仕事をしているのでしょう。実際、戸籍の無い人は今、日本に20万人いるらしいですが、その半分は国体を守る仕事を担っているのだと云われます。日本に一旦事あらば、彼らが守ってくれるのです。

 彼らは金も情報もあります。表に出る時は、誰にも分からない様に ちゃんと変装して出てくる訳です。でも分かっている人は分かっているかもです。マスコミ関係にもたまにいらっしゃるようです。急にデビューする人とか、何かおかしいな、何でこの人がヒットするのかなとか・・。

 日本でも 表と裏の世界があって、二重構造になっています。系列から言ったら南朝が多いそうです。南朝の繋がりの元を質すと、秦一族でしょうか。さらに秦一族(四国の忌部氏もその系列 )の元を質すと、今度は古代ユダヤ渡来部族(一説には二十余万人渡来 )なのでしょうか。さらにそのもとは古代天皇(スメラ・ミカド)になるのでしょうか・・。

 サッカーの神様を祭る神社が京都にある。蹴鞠(けまり)発祥の白峰神社。それと下鴨糺の森 河合神社。いずれも八咫烏。もう一つ(奈良県宇陀市に)八咫烏神社があります。日本の歴史を振り返るという事は簡単ですが、言ってはいけない事の方が多いのでしょう。「天照」(日本の国体)と「白山神界」(世界秩序)の違いなど・・。

 八咫烏で表の仕事をした有名な人として安岡正篤(まさひろ)陽明学者・思想家がおられます。1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)没。この方は金鵄会を創りました。彼は表で働いた人ですが、政財界、政府も動かしたそうです。気骨のある国士が少なからずいらっしゃいましたが、現在の国費を無駄遣いする政財界・官僚・マスゴミ達の輩は国民の暮らしより保身にのみ関心があるようで憤りを感じざるを得ません。
陸上自衛隊中部方面情報隊(ヤタガラス)

                陸上自衛隊中部方面情報隊(ヤタガラス)     

2009-01-19 001 020

            世界遺産の丹生都比売神社-和歌山県





                 ――◇――










    【  マイフォト 】

CA3C0194

             みたらい渓谷の秋―天川村
2018-01-23 001 039

          初瀬川土手に咲く撫子の花―桜井市(20180520)
2018-01-23 003 006

                初瀬川―桜井市
2018-01-23 001 007

             鳥見山公園の勾玉池―宇陀市   
2018-01-23 001 015

               久延彦神社展望台の夕陽②
2018-01-23 002 004

             外鎌山山頂の夕景(奈良県桜井市)       
2018-01-23 002 164

             高野山 奥の院へ(和歌山県)
2018-01-23 外鎌山登山

外鎌山(293m:桜井市忍阪)―大和三山等の展望良好!
2018-01-23 002 071

            加太港海岸夕景二月四日
2009-01-01 001 006

           初瀬川(背景には外鎌山)―桜井市
2017-12-10 001 002

              大神神社(奈良県桜井市)


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☀   雨の日には雨の中を
            風の日には風の中を  
                     歩こう。 ☽

❀  冬の樹氷 春の草花 夏の新緑 秋の紅(黄)葉 
                       四季折々の美しい輝きに癒される。 ❀

 
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《 日誌MEMO(予定&結果・感想等 ) 》 -2018年(平成30年)-


            (※二月は徐々に体調普通に戻る、仕事は後半好調に進む。NB学習不調。)
            (※三月は、体調普通。仕事やや不調。N B不調・・登山5回 )
             (※四月は、体調=普通。仕事=不調。NB微か進歩) 
                   

5月01日(火)荷受、仕事。近所W=          5900 歩。☆ (晴のち曇 )
5月02日(水) 仕事。近所W=            5100歩。 ☆ ( 雨 )
5月03日(木)仕事。W=     5800歩。   ( 雨後曇 )  
5月04日(金)荷受、仕事。W= 6300歩。☆ (晴のち曇 )
5月05日(土)明日香村サイクリング散策(3名)夕仕事。W= 21000歩。☆☆☆△ (晴 )
5月06日(日)仕事。W=               5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月07日(月)仕事。W=             6900歩。☆ ( 雨 )
5月08日(火)荷受、仕事。W= 4800歩。▲ ( 雨 )
5月09日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月10日(木)仕事。W=     5500歩。☆(Y氏 TEL応援あり) (晴のち曇 )
5月11日(金)荷受、仕事。W= 8900歩。☆ (晴 )
5月12日(土)仕事。W= 12500歩。☆☆(晴のち曇 )
5月13日(日)仕事。W= 4600歩。 ▲ ( 雨 )  
5月14日(月)仕事。W=             5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月15日(火)荷受、仕事。W= 10200 歩。 ☆☆(晴のち曇 )
5月16日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月17日(木)仕事。W=     6700歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月18日(金)(荷受なし)、仕事。W= 5900歩。 ☆ ( 雨後曇 )
5月19日(土)仕事。W= 11500 歩。☆☆ ((晴のち曇 )
5月20日(日)仕事。W= 6200歩。 ☆ ((晴 )  
5月21日(月)仕事。W=             6800歩。 ☆ ((晴 )
5月22日(火)荷受、仕事。W= 12800歩。 ☆ ((晴 ) (Y氏よりS条件変更あり)
5月23日(水)仕事。W=              4900歩。 ▲ ( 雨後曇 )
5月24日(木)仕事。W=    5800歩。 ☆ ((晴 )
5月25日(金)仕事。W=    8400歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月26日(土)仕事。W= 5100歩。 ☆ ((晴 )
5月27日(日)仕事。W= 4800歩。▲   (晴のち曇 )
5月28日(月)仕事。W=               6300歩。 ☆  ( 曇 )              
5月29日(火)<最終荷受>、仕事。W=          8800歩。 ☆  ( 曇 )        
5月30日(水)仕事。W=              5100 歩。 ☆  ( 曇 )     
5月31日(木)仕事。W=     6400歩。 ☆  ( 曇後雨)         
 
     (※五月は、体調=普通、仕事=やや回復傾向。NB不調。)                 

6月01日(金 )仕事。W=           7600歩。☆(晴)                 
6月02日(土 )仕事。W=             6900歩。☆(晴)  
6月03日(日)仕事。W=           5300歩。☆(晴のち曇)                6月04日(月 )仕事。W=    6800歩。☆(晴のち曇) 
6月05日(火 )外鎌山登山。仕事。W=      12400歩。☆☆( 曇後雨)
6月06日(水)仕事。W=             5700 歩。☆( 雨)
6月07日(木)仕事。W=         6500歩。 ☆( 曇 )
6月08日(金)仕事。W=              5900歩。☆( 曇後雨)
6月09日(土)仕事。W=         10600歩。☆☆(晴のち曇) 
6月10日(日)仕事。W=             4500 歩。▲(曇後雨)

6月11日(月)仕事。W=             5800 歩。☆( 曇後雨)
6月12日(火 )仕事。W=         歩。
6月13日(水)仕事。W=              歩。
6月14日(木)仕事。W=              歩。
6月15日(金)仕事。W=              歩。
6月16日(土)仕事。W=              歩。

◆なら山遊会◆「イベント」はー都合でしばらくお休み中。^^;再開の節は皆様またご参加宜しくです。※再開は事情にて未定とさせて頂きます。





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【myPFOTO】


2018-01-23 001 006

             久延彦神社展望台下の桜風景          
2017-09-18 001 011

               飛鳥の里ー棚田風景
2009-01-01 001 021

          大和の夕焼け空―奈良県桜井市三輪山麓より
2018-01-23 002 071

                加太湾の夕景  
 
高野山 奥之院御廟

 "高野山 奥之院御廟"
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                  加太夕景        
●古代史―海人族とは? ――――2018-06-11--468

●海神族とは?―

 海神族・海人族(カイジンゾクアマゾク)というグループは、縄文時代から弥生時代以降にかけて海上において活動し、のちには海上輸送で力をつけることとなった集団です。しかし、学術的な研究としてはまだ進んでいない分野であります。

●「志賀島」は安曇(アズミ)族の故郷だった:
志賀島博多湾

                     志賀島    
 博多湾に伸びる海の中道の先に志賀島がある。志賀島は本土と砂嘴で繋がる珍しい陸繋島であります。これが博多湾を天然の良港にし、独特の穏やかな風景を作り出しているといわれます。博多湾を抱くように伸びる海ノ中道と志賀島、そしてその隣にポツンと浮かぶ能古島を望みます。夏になると市営渡船に乗って海水浴へ。サザエのつぼ焼きと枇杷が懐かしい味わいがあります。海ノ中道には米軍の雁の巣キャンプがあったそうです。ここは車で通り抜けることが出来るようです。ゲートを通ると一瞬にしてアメリカンな世界へワープできそう。福岡・博多の人にとってはこの景色は故郷の原風景のようなものでしょう。しかしこの小さな島が古代史において重要な役割を果たしたランドマークであることは、ず~っと後になって知ることになりました。
志賀海神社ー志賀島

                   志賀海神社ー志賀島    
 志賀島といえば、金印が出土した場所で有名です。また元寇の時の激戦地でもありました。しかしそれだけではありません。古代海人族安曇族(阿曇族)の故地でもありました。海人族?安曇族?信州安曇野の?なんで博多湾の志賀島? 博多の人にもあまり知られていません。

 ここは律令制下では糟屋郡阿曇郷でありました。すなわち志賀町(現在は福岡市東区)には阿曇族の祖先神、綿津見三神が祀られる志賀海神社(シカノウミジンジャ、シカノワタジンジャ)が鎮座ましましています。元々は島の北の勝馬に本宮がありましたが,現在の砂嘴(サシ、シャシ)の付け根の志賀町に遷宮されました。今でも志賀島全体が神域とされています。
金印出土地。倭の奴国から見た当時の世界観

              金印出土地。(倭の奴国から見た当時の世界観)           
 古事記では、黄泉の国から帰ったイザナキは「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)阿波岐原(あわぎがはら)」で穢れを祓う禊(ミソギ)を行い、その時アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子が生まれたとされました。また同じく、阿曇族の祖神(ソシン、オヤガミ=先祖の神)、綿津見三神(ワダツミ、ワタツミ=海の神)、住吉族の祖神、住吉三神も生まれたとされます。そこは宮崎県の日向地方に比定されるのが通説といなっていますが、以前にも述べた理由からここ博多湾近郊であると考えられています。

 この志賀島・博多湾を拠点に活躍した古代の海の民、海人族が安曇族でありました。大陸との交易に重要な役割を担った安曇族のルーツは、おそらく大陸から渡ってきた人達でありましょう。この頃は現代のような国民国家という概念も国境という概念もない、したがって国籍などという制度もないので、倭人、韓人、漢人という区分けもはっきりしなかった訳です。

 朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていた人達が居ました。彼らは航海、漁労の技術を、そして大陸からの移住者を運び水稲農耕技術を北部九州に伝搬させました。いわゆる弥生初期の「倭国」あるいは「倭人」は朝鮮半島南端と北部九州にかけての海峡国家ないしはそこで生活する人々の総称で有った可能性もあると言われています(中国最古の地理書「山海経」にでてくる倭は朝鮮半島南部地域を指すとされています)。

 紀元1世紀になると列島側の「倭」にも日本列島、朝鮮半島、中国大陸との間を航海、通交できる人々がいたことでしょう。だからこそ「倭」の「奴国王」は洛陽にいた後漢の光武帝に使節を送り金印をもらうことが出来たのです。3世紀漢滅亡後、「倭」の「邪馬台国女王卑弥呼」は魏の皇帝に朝貢・遣使ができました。大陸にルーツを持つ海人族、安曇族が「倭国」において大きな役割を果たしたのではないかと思われます。



●筑紫三海人族:

 古代筑紫には安曇族の他にも次のような「海人族」がいました。いわゆる「筑紫三海人族」であります。記紀にその祖霊神誕生の記述があります。

(1)安曇族:綿津見三神(イザナキの禊から生まれた)を祖神とする。志賀島の志賀海神社に鎮座。

(2)住吉族:住吉三神(綿津見三神と同時にイザナキの禊から生まれた)を祖神とする。那の津の住吉神社(あるいはその奥にある那珂郡の現人神社)に鎮座。

(3)宗像族:宗像三女神(アマテラスとスサノオの誓約から生まれた)を祖神とする。すなわち綿津見/住吉三神の姪(?)に相当する。宗像郡の宗像大社に鎮座。

 それぞれの筑紫の海人族の祖神は、記紀編纂の中で皇祖神天照大御神を最高神とする「神々」体系のシステムにビルトインされています。ヤマト王権の確立、そして大和朝廷の成立時期になると、各地の氏族・豪族は、その一族の祖神を、皇祖神アマテラスに近い位置取りをするべく競う(天皇家との姻戚関係を持てる氏族)ようになり、公式記録である「記紀」に記述してもらう事は一族の権威を伝える為に極めて重要な事でありました。



●謎の安曇族:

 こうして安曇族はその存在を8世紀の編纂になる「記紀」に記述してもらう事に成功したため、現在までその一族の存在が記録として残りました。しかし、その存在は謎に満ちています。紀元前の倭国/奴国の時代から、対馬国、壱岐国、奴国といった対馬海峡、玄界灘を中心に活躍していた弥生の海人族であり、宗像族などよりは古い海人族だったようでした。

 しかし、後世には住吉族や宗像族のようにヤマト王権確立後に航海・交易に関わる国家祭祀を執り行う氏族としては存続しなかったのでした。そして筑紫から遠く離れた、しかも海のない信濃国の安曇郷にその名を残すことになります。何が起きたのでしょうか?

 安曇族は豊玉媛の子阿曇磯良を祖と仰ぎ、対馬に起源を持つ海神豊玉彦の子孫とされます。さらに遡ると、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族との地元伝承があます。

 こうしたことから後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国(後漢の光武帝から金印を受けた)は安曇族が建てた国ではないか?と唱える説があります。一方、のちの魏志倭人伝に記述のある「倭国大乱」では阿曇族は邪馬台国とともに奴国を滅ぼした?とする説もあります。いずれも明確な証拠がない上での推論だから、論争してみても始まらないですが・・。



● 金印と安曇族:

 さらに志賀島からは、後世(江戸時代黒田藩政時代に)後漢書東夷伝に記述のある「漢委奴国王」の金印が発見された(志賀海神社のある志賀集落からわずかに1キロほど離れた海岸べりの段丘の畑から出土したといわれる)。なぜ奴国王の金印が志賀島(奴国の範囲内ではあろうが,王都のあった岡本:スク遺跡辺りではなく)から出土されたのか論争を呼んでいるのは周知の通りです。安曇族の故地であり志賀海神社の神域である志賀島から出たが故に、安曇族と奴国の関わりについて以下のような推論がなされ、古代史ファンを沸かせているようです。

 ・通商窓口説:安曇族の国である奴国の航海通商の窓口たる志賀島に公印があったのだ。

 ・隠匿説:「倭国大乱」で邪馬台国に滅ぼされた奴国王が逃亡の際隠匿した。

 ・墳墓説:安曇の族長(奴国王?)の墓に副葬された。

 隠匿説が有力であるようですが,ここでは深く立ち入りません。当面、何かの物証が出るまでは歴史ロマンの領域にしておく方が良いかも知れません。


●奴国と安曇族:

 金印を受けた奴国があった1世紀頃の北部九州は大陸との窓口で、航海・漁労・水稲農耕といった弥生型の文化が流入する列島内でもっとも先進的な地域でありました。志賀島の金印発掘の他にも、福岡市南部から春日市にかけて広がるスク・岡本遺跡の王墓からは前漢鏡、ガラス玉、剣(三種の神器?)などの副葬品が多数出土し、この一帯は紀元前1世紀頃の王都の遺構だとされています。

 すなわち「漢委奴国王」の数代前の奴国王の時代であります。また金属機器・ガラス製造のハイテクコンビナート、比恵遺跡・金隈遺跡など奴国の生産工場遺跡群も発見されています。こうした考古学的な物証からこの博多湾沿岸地域が後漢と交流していた倭国の盟主「奴国」であったとことは間違いありません。

 しかし、それ以上の奴国の実態(近隣の伊都国や邪馬台国との関係など)、奴国王は誰なのか?いつ頃,どのようにして奴国王は消えたのか?(3世紀の魏志倭人伝には奴国の記述はあるが王の存在は記述されていない)等、いまだに解明されてない事も多いのです。

 この頃博多湾沿岸を拠点に大陸や列島各地との通行・交易に活躍していた海人族、安曇一族がこうした奴国の隆盛に大きな役割を果たしていたのは事実でありましょう。しかし,だからと言って安曇族が奴国を建てたというのはどうでありましょう。奴国は確かに大陸と通交し、その便益を最大限活用して「倭国」の盟主になったのだが、基本的には水稲農耕社会でありました。海人族よりも農業生産手段と人民を支配していた族長の国だったのでありましょう。



●筑紫三海人族のその後。

 (1)安曇族:近畿へ移住した阿曇連はヤマトで大王の側近として活躍しました。一方、筑紫に残っていた一族は、527年の筑紫磐井の乱では磐井(筑紫の大王)側につき、敗戦後、筑紫を逃亡し信濃国安曇郡を建郡(穂高神社に奉祭)。「チクシ王権」対「ヤマト王権」の戦いでありました「筑紫磐井の乱」では、筑紫王である磐井は殺され,その息子葛子は糟屋の屯倉(みやけ)をヤマト王権側に提供して恭順しました。

 安曇一族は筑紫を捨て、以前の交易仲間のツテをたどって、いまだヤマト王権の支配が及ばない信濃に逃亡、さらには後世の「平家の落人集落」宜しく,全国に「あずみ」集落が出来る(安曇野、渥美、飽海、熱海、安住、滋賀、志賀...)。またヤマト王権に仕えた阿曇一族も663年の白村江戦いで渡海出陣した氏族の長比羅夫が戦死して一族は衰退して行きました。

 (2)住吉族:瀬戸内沿岸、やがては摂津の住之江に勢力を広げ、現在の住吉大社あたりを本願地とします(住吉神社は、那の津、下関、兵庫、摂津と瀬戸内沿岸の「津」があった所に鎮座)。やがて摂津の「津守」氏がヤマト王権とともに勢力を拡大し、航海通交の守護神として国家祭祀を司りました。特に大和朝廷の使節である遣唐使船の守護神として乗船し渡唐しています。

 実はこの住吉三神を祖神とする「住吉族」とはどのような一族であったのでしょうか。あまり分かっていないが住吉三神は綿津見三神とともにイザナギの禊から生まれたと云われます。すなわちセットで現れた神とされています。これは何を意味するのでしょうか。那の津(日本第一住吉神社)に拠点を置いていたらしいですが、一説に阿曇族(粕屋郡阿曇郷の志賀海神社)の一族で、分家的存在であったとも言われています。

 またどのような理由で東へ移動して摂津に拠点を移した(東遷した)のか,そしてどのようにヤマト王権の国家祭祀を司る氏族になって行ったのか。住吉大社の津守氏とは誰なのでしょうか?

 一説に曰く、三神はオリオン星座による航海術のシンボル。阿曇族は外洋航海(大陸への航海)を主に取り扱い、住吉族は内海航海(玄界灘沿岸から瀬戸内)をもっぱらにしたのでは。安曇族が筑紫を去って後に外洋航海に進出?むしろ津守氏になってから摂津から筑紫へ西遷したと云われます。

 (3)宗像族(胸肩氏/胸形氏):沖の島における国家祭祀を司る一族として出てくるのは4世紀以降でした。ヤマト王権が百済との通交を求めて半島へ出兵する時期です。安曇氏に比べると比較的新しい在地豪族と言えるかも知れません。

 一説に曰く、ながく玄界灘の制海権を握っていた安曇族のもとで働き、そこで航海術を学び蓄積して行ったのでは?沖の島が大陸との航海の中継地点とするには、沖の島から朝鮮半島までの距離が長過ぎます。対馬海峡の速い海流の中を壱岐、対馬を経由しながら行くのが最も妥当な航路(まさに阿曇氏の本拠地を経由する)とされ、やはり安曇氏が筑紫を去ってからその後を引き継いだのではないか、と思われます。

 527年の磐井の乱では、安曇族と異なり筑紫磐井に加担せず、ヤマト王権に本領安堵されました。その後も筑紫を出る事無く地元の氏族として存続しています。ヤマト大王の后を出すなどヤマト王権との結びつきが強い(アマテラスの言葉:男神であるニニギの子孫を守れ、という)。特に大陸との通交・国家祭祀を司る一族(「海の正倉院」と言われる沖の島祭祀遺跡)としてヤマト王権/大和朝廷にとって対外交渉を司る重要な筑紫在地豪族として繁栄していきます。瀬戸内の厳島(宗像三女神の一人、イチキシマ姫)神社はその流れです。



● チクシ倭国からヤマト倭国への変遷の軌跡:

 このような筑紫三海人族の盛衰の軌跡は,チクシ倭国からヤマト倭国へと変遷して行った動線に寄り添う伏線のように見えます。「倭国」チクシ王権のルーツは奴国だったのでありましょう。奴国の名は3世紀の魏志倭人伝には出てきますが、奴国王の存在は見えないのです。すでに、あの「倭の奴国王」は居なくなっていて、チクシ「倭国」の中心は北部九州のいずれか(隣の伊都国や磐井の本拠地八女地方あたり?そこがチクシ邪馬台国であったのかもしれないが)に移っていたかも知れません。

 奴国が邪馬台国に敗れ、やがては近畿ヤマト王権へと変遷して行く過程の最後の抵抗が「筑紫磐井の乱」であったと考えられます。ヤマト王権が倭国を曲がりなりにも統一支配する兆しを見せるのは5世紀以降(それまでの呪術的支配から武断的支配に移行した「倭の五王」、「ヤマトタケル東征、西征伝承」の時期以降)でありましょうから。

 この時期はまだヤマト対チクシの対立構造が残っていたと思われます。安曇族・住吉族(いずれもイザナギの禊から生まれた綿津見三神、住吉三神の子孫)の筑紫出奔、アマテラス体制へのビルトインは、チクシ倭国がヤマト倭国に凌駕されて行った過程、ないしは邪馬台国がチクシからヤマトに移って行った過程の出来事の一つを物語っているのかも知れません。


●住吉神社/宗像大社/志賀海神社の今:

 現在、博多(那の津)の住吉神社は筑前國一宮(戦前は官幣小社)として、また、全国2900社余の住吉系神社の第一神社として崇敬を集めています。大阪の住吉大社(戦前は官幣大社)は現在全国住吉社の総本宮となっています。

 宗像大社(戦前には官幣大社)は、全国に7000社あると言われる宗像社、厳島社の総本宮として名声を誇ります。しかし、志賀海神社(戦前の官幣小社)は全国の海神社、綿津見神社の総本宮ではありますが、ひっそりと志賀島にその安曇族の祖神の鎮座地としての佇まいを残しています。

 一方、信濃の国の安曇郡の穂高神社は一族の祖神(綿津見神、阿曇連比羅夫)の新しい鎮座地となりました。古代筑紫の海を駆け抜けた海人族、安曇族はこうして信濃の民となっていきました。
(https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/65fadadff1a53c4676eed4cb26addc4c参照・抜粋 )

博多湾・糸島半島(古代伊都国)夕景

博多湾・糸島半島(古代伊都国)夕景
2009-01-19 001 014

丹生都比売神社(丹生族も海神族だったのか )




                 ――◇――










    【  マイフォト 】

CA3C0194

             みたらい渓谷の秋―天川村
2018-01-23 001 039

          初瀬川土手に咲く撫子の花―桜井市(20180520)
2018-01-23 003 006

                初瀬川―桜井市
2018-01-23 001 007

             鳥見山公園の勾玉池―宇陀市   
2018-01-23 001 015

               久延彦神社展望台の夕陽②
2018-01-23 002 004

             外鎌山山頂の夕景(奈良県桜井市)       
2018-01-23 002 164

             高野山 奥の院へ(和歌山県)
2018-01-23 外鎌山登山

外鎌山(293m:桜井市忍阪)―大和三山等の展望良好!
2018-01-23 002 071

            加太港海岸夕景二月四日
2009-01-01 001 006

           初瀬川(背景には外鎌山)―桜井市
2017-12-10 001 002

              大神神社(奈良県桜井市)


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☀   雨の日には雨の中を
            風の日には風の中を  
                     歩こう。 ☽

❀  冬の樹氷 春の草花 夏の新緑 秋の紅(黄)葉 
                       四季折々の美しい輝きに癒される。 ❀

 
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《 日誌MEMO(予定&結果・感想等 ) 》 -2018年(平成30年)-


            (※二月は徐々に体調普通に戻る、仕事は後半好調に進む。NB学習不調。)
            (※三月は、体調普通。仕事やや不調。N B不調・・登山5回 )
             (※四月は、体調=普通。仕事=不調。NB微か進歩) 
                   

5月01日(火)荷受、仕事。近所W=          5900 歩。☆ (晴のち曇 )
5月02日(水) 仕事。近所W=            5100歩。 ☆ ( 雨 )
5月03日(木)仕事。W=     5800歩。   ( 雨後曇 )  
5月04日(金)荷受、仕事。W= 6300歩。☆ (晴のち曇 )
5月05日(土)明日香村サイクリング散策(3名)夕仕事。W= 21000歩。☆☆☆△ (晴 )
5月06日(日)仕事。W=               5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月07日(月)仕事。W=             6900歩。☆ ( 雨 )
5月08日(火)荷受、仕事。W= 4800歩。▲ ( 雨 )
5月09日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月10日(木)仕事。W=     5500歩。☆(Y氏 TEL応援あり) (晴のち曇 )
5月11日(金)荷受、仕事。W= 8900歩。☆ (晴 )
5月12日(土)仕事。W= 12500歩。☆☆(晴のち曇 )
5月13日(日)仕事。W= 4600歩。 ▲ ( 雨 )  
5月14日(月)仕事。W=             5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月15日(火)荷受、仕事。W= 10200 歩。 ☆☆(晴のち曇 )
5月16日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月17日(木)仕事。W=     6700歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月18日(金)(荷受なし)、仕事。W= 5900歩。 ☆ ( 雨後曇 )
5月19日(土)仕事。W= 11500 歩。☆☆ ((晴のち曇 )
5月20日(日)仕事。W= 6200歩。 ☆ ((晴 )  
5月21日(月)仕事。W=             6800歩。 ☆ ((晴 )
5月22日(火)荷受、仕事。W= 12800歩。 ☆ ((晴 ) (Y氏よりS条件変更あり)
5月23日(水)仕事。W=              4900歩。 ▲ ( 雨後曇 )
5月24日(木)仕事。W=    5800歩。 ☆ ((晴 )
5月25日(金)仕事。W=    8400歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月26日(土)仕事。W= 5100歩。 ☆ ((晴 )
5月27日(日)仕事。W= 4800歩。▲   (晴のち曇 )
5月28日(月)仕事。W=               6300歩。 ☆  ( 曇 )              
5月29日(火)<最終荷受>、仕事。W=          8800歩。 ☆  ( 曇 )        
5月30日(水)仕事。W=              5100 歩。 ☆  ( 曇 )     
5月31日(木)仕事。W=     6400歩。 ☆  ( 曇後雨)         
 
     (※五月は、体調=普通、仕事=やや回復傾向。NB不調。)                 

6月01日(金 )仕事。W=           7600歩。☆(晴)                 
6月02日(土 )仕事。W=             6900歩。☆(晴)  
6月03日(日)仕事。W=           5300歩。☆(晴のち曇)                6月04日(月 )仕事。W=    6800歩。☆(晴のち曇) 
6月05日(火 )外鎌山登山。仕事。W=      12400歩。☆☆( 曇後雨)
6月06日(水)仕事。W=             5700 歩。☆( 雨)
6月07日(木)仕事。W=         6500歩。 ☆( 曇 )
6月08日(金)仕事。W=              5900歩。☆( 曇後雨)
6月09日(土)仕事。W=         10600歩。☆☆(晴のち曇) 
6月10日(日)仕事。W=             4500 歩。▲(曇後雨)

6月11日(月)仕事。W=              歩。
6月12日(火 )仕事。W=         歩。
6月13日(水)仕事。W=              歩。
6月14日(木)仕事。W=              歩。
6月15日(金)仕事。W=              歩。
6月16日(土)仕事。W=              歩。

◆なら山遊会◆「イベント」についてー仕事等の都合でしばらくは中止と致しました。^^;再開の節は皆様またご参加宜しくです。※登山イベントアップ再開は事情にて早くて6月以降となります。どうぞ ご了解下さいませ。





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【myPFOTO】


2018-01-23 001 006

             久延彦神社展望台下の桜風景          
2017-09-18 001 011

               飛鳥の里ー棚田風景
2009-01-01 001 021

          大和の夕焼け空―奈良県桜井市三輪山麓より
2018-01-23 002 071

                加太湾の夕景  
 
高野山 奥之院御廟

 "高野山 奥之院御廟"
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                    岩橋山   
●古代の歴史―日本人のルーツ ――――2018-06-06--463 

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               ウバユリ―岩橋山東山麓

●日本人のルーツとは?―人類のDNA分析から―

 古代の東アジアのルーツは、概ねモンゴロイド系の人々ですが、北方系モンゴロイドと南方系モンゴロイドとの混血が日本人です。一方1万数千年前に南北アメリカ大陸へ移動したのも北方系モンゴロイドでしたが、後世にはヨーロッパ系白人に(虐殺され)滅ぼされる運命に遭遇しました。最近では縄文人の子孫だという説があります。

●古代の人類(モンゴロイド)の移動―

1.まず、氷河期(2~3万年前)に樺太~北海道経由、朝鮮半島~九州経由で北方系モンゴロイドが日本列島に移入してきます。この集団は、当時の最新兵器の「細石刃」を携えてきました。細石刃とは槍の穂先の両端に剃刀状の薄くて鋭い刃先をした石器で、人々はこれで、大型の哺乳類(マンモス、ナウマン象、ヘラジカ等)を捕獲していました。氷河期の日本列島は現在よりも海水面が最大で140m程低く、アムール川河口近辺と樺太、北海道は陸続きだったようです。津軽海峡は現在よりも狭く、冬季は流氷の流入により、徒歩で渡海可能だったと言われています。また、朝鮮海峡も現在よりもかなり狭く、河程度の幅しかなく、徒歩で渡海可能または原始的な船で渡海できたようです。
以前、現在日本人の遺伝子を調べたところ、20人の内14人がバイカル湖周辺にいるブリヤート人と遺伝子が一致したそうです。このことは旧石器時代に日本列島に移入してきた北方系モンゴロイドのルーツはバイカル湖付近であるとの根拠になっています。

2.次に、間氷期の始まり(1万6千年前頃)、つまり縄文時代が始まる頃、東南アジアから黒潮に乗って南方系モンゴロイドが九州南部を中心に移入してきたようです。このグループは東南アジアをルーツとする「ノミ型石斧」を携えてきました。ノミ型石斧は現在の大工さんが使用するノミと形状がほぼ一緒で、これで当時の人々は丸木船を作り、渡海して来たと言われています。沖縄の具志頭村で1967年に発見された「港川人」の頭蓋骨の形状は、ジャワ島で発見された「ワジャク人」と類似しており、眉間が高く、頬骨が張った形状をしており、古いホモサピエンスの特徴を持っているそうです。また、縄文人の頭蓋骨にも類似しております。

3.約2300年前に日本列島に「水稲稲作」が始まります。これを持ち込んだのは中国大陸をルーツとする人々だったようです。山口県土井ヶ浜で発見された「土井ヶ浜人」や北部九州で見つかる弥生時代の人骨は揚子江下流域で発見される人骨と類似しているそうで、縄文人とは頭蓋骨の形状や身長などが明らかに違っています。

4.最後に、現在の言語学会では「上古日本語は北方系の文法に南方系の音韻及び語彙が重なった言語である」との説が一般的に成りつつあり、上記の北方系モンゴロイドと南方系モンゴロイドの混血説を補強するものだと思います。

5.アメリカインディアンのルーツに関しては、ミトコンドリアDNAの研究の結果、北方系モンドロイドと南方系モンゴロイドの混血で、氷河期の終わり頃(1万8千年前頃)にベーリング海峡を渡海した人々の子孫だそうです。

<参考>
「日本人と日本語のルーツを掘り起こす」 宮崎嘉夫
「日本人はるかな旅」 NHK
「イブの遺伝子」 Discovery Japan

<追記>
 和歌のルーツに関しては、大野晋氏が「日本語の起源」でタミル語で書かれた「サンガム」にあると述べておられますが、学会からは賛同を得られていないようです。


●古代史から―「倭族」論―

 古代史、文化人類学研究者の鳥越憲三郎は「倭族」仮説(倭族論)を提唱している。鳥越の定義では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である。

 古代日本列島における倭人・倭国については『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)が有名であるが、鳥越は他の史書における倭人の記述(『論衡』から『旧唐書』に至るまで)を読解し、長江(揚子江)上流域の四川省・雲南省・貴州省の各省にかけて、複数の倭人の王国があったことを指摘した。その諸王国はたとえば『史記』にある以下の諸国である。
テン(中国雲南省)の青銅の彫像

                 テン(中国雲南省)の青銅の彫像               
滇(てん)
夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族・ミャオ族・ペー族・回族などが居住)
昆明
且蘭(しょらん)
徙(し)
キョウ都(現在の揚州市邗江区に比定)

巴(重慶市)

 さらに鳥越は、倭族の起源地を雲南省の湖・滇池に比定し、水稲の人工栽培に成功したというシナリオを描く。以降、鳥越は古代史的な文献研究と現場調査を交差させ、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったことを示した。

 分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。ほか鳥越は、高床式建物、貫頭衣(和服)、注連縄などの風俗を比較している。また諏訪春雄は倭族を百越の一部としている。

 いずれにせよこの倭族論(倭族仮説)は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論や近年の稲作の渡来とも重なっている。
(Wikipedia参照・抜粋)
 
 また近年では、国際的に連帯した歴史研究機関や個人研究家の視点に違いのある諸説が発表されているのも興味惹かれるものである。


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               百済寺の瓢箪池―北葛城郡広陵町     









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    【  マイフォト 】

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             みたらい渓谷の秋―天川村
2018-01-23 001 039

          初瀬川土手に咲く撫子の花―桜井市(20180520)
2018-01-23 003 006

                初瀬川―桜井市
2018-01-23 001 007

             鳥見山公園の勾玉池―宇陀市   
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               久延彦神社展望台の夕陽②
2018-01-23 002 004

             外鎌山山頂の夕景(奈良県桜井市)       
2018-01-23 002 164

             高野山 奥の院へ(和歌山県)
2018-01-23 外鎌山登山

外鎌山(293m:桜井市忍阪)―大和三山等の展望良好!
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            加太港海岸夕景二月四日
2009-01-01 001 006

           初瀬川(背景には外鎌山)―桜井市
2017-12-10 001 002

              大神神社(奈良県桜井市)


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☀   雨の日には雨の中を
            風の日には風の中を  
                     歩こう。 ☽

❀  冬の樹氷 春の草花 夏の新緑 秋の紅(黄)葉 
                       四季折々の美しい輝きに癒される。 ❀

 
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《 日誌MEMO(予定&結果・感想等 ) 》 -2018年(平成30年)-


            (※二月は徐々に体調普通に戻る、仕事は後半好調に進む。NB学習不調。)
            (※三月は、体調普通。仕事やや不調。N B不調・・登山5回 )
             (※四月は、体調=普通。仕事=不調。NB微か進歩) 
                   

5月01日(火)荷受、仕事。近所W=          5900 歩。☆ (晴のち曇 )
5月02日(水) 仕事。近所W=            5100歩。 ☆ ( 雨 )
5月03日(木)仕事。W=     5800歩。   ( 雨後曇 )  
5月04日(金)荷受、仕事。W= 6300歩。☆ (晴のち曇 )
5月05日(土)明日香村サイクリング散策(3名)夕仕事。W= 21000歩。☆☆☆△ (晴 )
5月06日(日)仕事。W=               5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月07日(月)仕事。W=             6900歩。☆ ( 雨 )
5月08日(火)荷受、仕事。W= 4800歩。▲ ( 雨 )
5月09日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月10日(木)仕事。W=     5500歩。☆(Y氏 TEL応援あり) (晴のち曇 )
5月11日(金)荷受、仕事。W= 8900歩。☆ (晴 )
5月12日(土)仕事。W= 12500歩。☆☆(晴のち曇 )
5月13日(日)仕事。W= 4600歩。 ▲ ( 雨 )  
5月14日(月)仕事。W=             5400歩。☆ (晴のち曇 )
5月15日(火)荷受、仕事。W= 10200 歩。 ☆☆(晴のち曇 )
5月16日(水)仕事。W=              5300歩。☆ (晴のち曇 )
5月17日(木)仕事。W=     6700歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月18日(金)(荷受なし)、仕事。W= 5900歩。 ☆ ( 雨後曇 )
5月19日(土)仕事。W= 11500 歩。☆☆ ((晴のち曇 )
5月20日(日)仕事。W= 6200歩。 ☆ ((晴 )  
5月21日(月)仕事。W=             6800歩。 ☆ ((晴 )
5月22日(火)荷受、仕事。W= 12800歩。 ☆ ((晴 ) (Y氏よりS条件変更あり)
5月23日(水)仕事。W=              4900歩。 ▲ ( 雨後曇 )
5月24日(木)仕事。W=    5800歩。 ☆ ((晴 )
5月25日(金)仕事。W=    8400歩。 ☆ (晴のち曇 )
5月26日(土)仕事。W= 5100歩。 ☆ ((晴 )
5月27日(日)仕事。W= 4800歩。▲   (晴のち曇 )
5月28日(月)仕事。W=               6300歩。 ☆  ( 曇 )              
5月29日(火)<最終荷受>、仕事。W=          8800歩。 ☆  ( 曇 )        
5月30日(水)仕事。W=              5100 歩。 ☆  ( 曇 )     
5月31日(木)仕事。W=     6400歩。 ☆  ( 曇後雨)         
 
     (※五月は、体調=普通、仕事=やや回復傾向。NB不調。)                 

6月01日(金 )仕事。W=           7600歩。☆(晴)                 
6月02日(土 )仕事。W=             6900歩。☆(晴)  
6月03日(日)仕事。W=           5300歩。☆(晴のち曇)                6月04日(月 )仕事。W=    6800歩。☆(晴のち曇) 
6月05日(火 )外鎌山登山。仕事。W=      12400歩。☆☆( 曇後雨)

6月06日(水)仕事。W=              歩。
6月07日(木)仕事。W=         歩。
6月08日(金)仕事。W=              歩。
6月09日(土)仕事。W=              歩。
6月10日(日)仕事。W=              歩。
6月11日(月)仕事。W=              歩。
6月12日(火 )仕事。W=         歩。
6月13日(水)仕事。W=              歩。
6月14日(木)仕事。W=              歩。
6月15日(金)仕事。W=              歩。
6月16日(土)仕事。W=              歩。

◆なら山遊会◆「イベント」についてー仕事等の都合でしばらくは中止と致しました。^^;再開の節は皆様またご参加宜しくです。※登山イベントアップ再開は事情にて早くて6月以降となります。どうぞ ご了解下さいませ。





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【myPFOTO】


2018-01-23 001 006

             久延彦神社展望台下の桜風景          
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                加太湾の夕景  
 
高野山 奥之院御廟

 "高野山 奥之院御廟"
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