◆父の日に贈る言葉―――20170519-044
一般的行事として家族でお父さんを応援する、日本では6月第3日曜日が父の日です。カナダ、イギリス、 アイルランド、アジア諸国も同じ日を父の日としていますが、 母の日に比べて地味に行 われることが多いようです。今は亡き父には感謝の言葉を贈りたいと思います。お気に入りの静かな場所にて・・。
●「神々の生活」
ひどく窮乏に惱まされ、乞食のような生涯を終ったある「男」が、熱心にある神を信仰し、最後迄も疑わずその全能を信じていました・・。
「あなたもまた、この神樣を信仰なさい。疑ひもなくなれば、きっと御利益がありますから。」と臨終の床の中でも、彼は人に逢う毎にそれを説いていました。だけど人々は可笑しく思い、彼の言うことなど信じなかったのでした。
何故って?!神がもし本当の全能ならば、この不幸な貧しい「男」を、生涯の乞食にはしなかっただろうと思うから。信仰の御利益は、もっと早く、少なくとも彼が死ぬ前に、多少の安楽な生活を惠んだであろうと思われるからです。
「乞食もまた神の恩惠を信じるか!」そう言って人々は嘲笑したのでした。しかしその貧しい「男」は、手を振って答弁し、神のあらたかな御利益につき、熱心になって実証しました。
例えば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天が雨を降らさないように時々その神に向って祈願していました。あるいはまた一杯の飯を食うべく、それだけの收入が有り得るようにと、彼の善き神に向って哀願していました。そしてまた、時に合宿所の寢床で、彼が温かい夜具の方へ、順番を好都合にしてもらえる事を、密かにその神へ歎願していました。
そしてこれ等の祈願は、概ねの場合において、神の聽き入れるところとなつたのでした。いつでも彼は、その信仰の為に惠まれており、神の御利益からは幸福だつたのです。勿論その貧しい「男」は、それより以上に「全能なるもの」を考え得ず想像することもなかつたのです。
人生について知られるのは、「全能の神」が一人でなく到るところに在る事でありましょう。それらの多くの神々たちは、野辺の道や寂しい辻のほとり、田舍の小さな森の影や、景色の荒寥とした山の上等、或いは裏街の入り込んでいる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間共の侘しげな世界の中で、静かに情趣深く生活して居るのでありましょう。仏教では地湧(ぢゆう)の菩薩といわれ、お地蔵様とも呼ばれ親しまれています。
外鎌山(290m:奈良県桜井市)
―あれからン十年、僕はずっと何を待っていたのだろうか?自問自答しながら生きてきました。恋人でもなく、欲情でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。僕はかつて若い頃には、一切のものを欲情していました。そして今既に老いて疲れ果て、一切のものを喪失?してしまいました・・。(ホンマカイナァ・・)
僕は孤独の椅子を探して・・都会の街々を放浪して來ました。そして最後に、自分の求めてるものを知ったのであります。一杯の冷たい麦酒と、雲や夕陽を見ている僅かな「自由なる時間」!昔からこの日に至るまで、僕の求めたものは結局それだけだったのかも知れません・・。癒しのオレンジ色と夕陽。
夕陽―加太の海岸にて(20170330)
★本日もご訪問ご拝読頂き誠に有り難うございます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
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●健康が一番!!
● 父の日にプレゼント・祖父母にも喜ばれるもの―
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