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シニアの健康日記ですが、健康に関連したモノ・食品・サプリ等や身体に良い運動、アウトドア関連・軽登山・トレッキング・寺社&磐座の散策ハイク等を主な記事内容にして行きたいと思います。そして、訪問者や閲覧者に少しでもお役に立てれば幸いに思います。初心者なのですがこのサイトと共に自分も成長して参りたいと思います。今後とも応援宜しくお願い申し上げます。

カテゴリ: 日本文化の誇り

 花火 フリー素材
   
◆井上 靖 の「生涯」―覚書― ――20170626-097

 
     【 生 涯 】
 
      若いころはどうにかして黄色の菊の大輪(タイリン)を
     夜空に打揚げんものと、寝食を忘れたものです。
     
      漆黒の闇の中に一瞬ぱあっと明るく開いて消える
     黄菊の幻影を、幾度夢に見て床の上に跳び起きた
     ことでしょう。
     
      しかし、結局、花火で黄いろい色は出せませんで
     したよ。――老花火師は火薬で荒れた手を膝の上
     において、痣あざのある顔を俯向うつむけて、こう言
     葉少く語った。
   
      黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、
     その頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花
     火師だった。
 
      一分間に六十発、白熱した鉄片を底に横たえた
     筒の中に、次々に火薬の玉を投げ込む手練の技
     術はまさに神業といわれていた。
  
      そしていつも、頭上はるか高く己が打揚げる幾
     百の火箭ひやの祝祭に深く背を向け、観衆のどよ
     めきから遠く、煙硝のけむりの中に、独身で過した
六十年の痩躯そうくを執拗に沈めつづけていた。
                       
井上 靖  詩集『北国』(1958年)

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この作品は花火師に託して、作家の宿命が語られています。創作家は誰もがオリジナリティー豊かな作品世界を目指します。でも、それを達成できるのはごく一握りの者であって多くは無念の思いで文壇から脱落していきます。ただ、長年の文学的修練によって、職人的な表現技術だけは熟練してきます。文学賞は取れなくても、売文作家として熟練した「職人」として生きていくことはできます。

 しかし、そこには若い日に夢見たような独創性溢れる芸術作品はありません。花火師に譬えれば、〈黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、その頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花火師だった。〉ということになります。

 作品タイトルの「生涯」は、芸術家の生涯です。創作活動の厳しさと挫折の悲劇を、一篇の寓話に託して語れるのは、作者に作家的技倆があればこそと思えます。

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【メモ】

井上 靖 1907(明治40)年5月6日 – 1991(平成3)年1月29日北海道旭川町(現在の旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。父が軍医で任地を転転としたため、幼少期は父の故郷伊豆湯ヶ島で過ごす。
                     (写真は井上靖文学館のサイトより転載)
1912年(大正元年)、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。
1914年(大正3年)、湯ヶ島尋常小学校(後の伊豆市立湯ヶ島小学校。現在は閉校)に入学。
1927年(昭和2年)、家業の医学を修めるつもりで金沢市の第四高等学校(現在の金沢大学)理科に入学したが、柔道部に入り明けても暮れても道場に通う。
1929年(昭和4年)、柔道部を退部。医学に進む気はなく、一時離れていた文学活動を本格化。
1930年(昭和5年)、第四高等学校理科を卒業。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。家族の期待に反して、九州帝国大学法文学部英文科へ入学。
1932年(昭和7年)、九州帝大中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学、美学を専攻。
この頃から懸賞小説に連続して入選する。
1935年(昭和10年)京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。
1936年(昭和11年)、京都帝大卒業。『サンデー毎日』懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊、学芸部へ復帰。部下に山崎豊子がいた。
戦後は学芸部副部長をつとめ、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわる。
1950年(昭和25年)、『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。
1951年(昭和26年)、毎日新聞社を退社。以後創作の執筆と取材講演のための旅行が続く。
1964年(昭和39年)、日本芸術院会員となる。
1976年(昭和51年)、文化勲章受章。
1982年(昭和57年)以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。
1988年(昭和63年)、ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務める。
1991年(平成3年)、食道がんのため死去。戒名は峰雲院文華法徳日靖居士。墓所は静岡県伊豆市、葬儀委員長は司馬遼太郎。
2007年(平成19年)、井上靖生誕100周年を記念して『風林火山』が大河ドラマとして放送された。

【受賞歴】
1936年(昭和11年) 『流転』で第1回千葉亀雄賞
1950年(昭和25年) 『闘牛』で第22回芥川賞
1958年(昭和33年) 『天平の甍』で芸術選奨文部大臣賞
1959年(昭和34年) 『氷壁』で日本芸術院賞
1960年(昭和35年) 『敦煌』『楼蘭』で毎日芸術賞
1961年(昭和36年) 『淀どの日記』で第12回野間文芸賞
1964年(昭和39年) 『風濤』で第15回読売文学賞
1969年(昭和44年) 『おろしや国酔夢譚』で第1回日本文学大賞。ポルトガル・インファンテ・ヘンリッケ勲章。
1976年(昭和51年) 文化勲章、文化功労者
1980年(昭和55年) 菊池寛賞
1981年(昭和56年) NHK放送文化賞・仏教文化賞
1982年(昭和57年) 『本覚坊遺文』で日本文学大賞
1985年(昭和60年) 朝日賞
1986年(昭和61年) 北京大学より名誉博士号
1989年(平成元年) 『孔子』で第42回野間文芸賞
         (ウェブ百科事典「ウィキペディア」を基に構成)

                ――◇◆◇――

★本日もご訪問ご拝読頂き誠に有り難うございます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
2017-06-13 001 016

神秘的な神代杉

上:どくだみの花
下:神秘的な神代杉(玉置神社)

                ――◇◆◇――                


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2017-05-28 001 005
深田池―橿原神宮

◆古より続く日本文化の工夫と誇り― ――20170602-064

 国家の基盤づくりをしていた日本の天平文化には盛唐文化の影響を受けた国際色の色濃い文化だったと言えます。その当時の建築や彫刻には大変興味が湧いて参ります。

 「建築」で言えば、日本固有の建築様式は掘立柱(ホッタテバシラ)です。仏教建築が入る以前からの我が国の建築方式で、各地の神社の社殿がこの方式で建てられています。土のままの地面に柱の大きさの穴を掘ってそこに柱を落とし込んで固定して建てます。地面にクイを打ち込むのに似ています。

 さらに日本古来の建築様式は、建物の基礎を盛り上げ(基壇)ないこと、直線を多用すること、南方的で開放的であること、軒が低く、柱が細く華奢であること、着色せず素木(シラキ)であること、瓦を用いないこと、などです。イメージとして、素朴、華奢、清楚、単純、軽快といった言葉になります。

 大陸伝来の仏教建築は、基壇を築きさらに「」(セン)という瓦で舗装します。そこに「礎石」という石を据えその上に柱を立てます。屋根の軒はカーブを描いて反り上がり、瓦葺きです。柱は赤く窓の格子は緑に塗ります。柱は太く天井や軒は高くそして壁で囲んで閉鎖的です。イメージとして、豪華、豪壮、派手、重厚といったキーワードです。

 「彫刻」では、仏像そのものが外来文化ですから、それ以前の埴輪をみるとやはり単純、簡素、平明、それから柔和、明朗がキーワードです。とくに柔和、明朗というのが日本人本来の個性である「やさしい感性」を良く表しており、憤怒の形相の埴輪など見たことがありませんよね。

 仏教文化における仏像は、菩薩は宝石、金銀で満艦飾に飾り付けられています。赤、黄、緑、青、黒など色を多用して派手に着色します。怒りの(感情を表す)表情の仏像も多いです。イメージとしては、剛胆、派手、豪華、写実となるでしょうか。

 東大寺法華堂の日光 月光菩薩様も今見ると、白い仏さまで、なんと日本的なと勘違いするのですが、近寄って細部を見ると当時の彩色の様子が観察され、それから察すると、出来た当初はかなり派手な色合いに彩色されていたことが分かります。

 おなじく不空羂索観音さんがかぶっている宝冠は1万個以上の宝石、ガラス玉でできた、たいそう豪華な派手なものです。こういうのはもともとの日本人の感性にはなかったものです。

 当時貴族はなぜ唐の文化を重んじたのかは、今でも世界の発展途上国は、西欧先進国の文化を移入したがるでしょう。文化的で、カッコ良く、魅力的だという訳なんですね~。

 当時の(という王国)は世界の中でも最も進んでいた先進国でありました。イスラム世界に滅ぼされた ペルシャ帝国の人々の亡命を含め各国から色々な人種やあらゆる文化・宗教に対して寛容で最も自由な(中国では珍しい)時代でもありました。当時のペルシャ人の外見は白人で、中国の貴族や富裕層にはファッションや宝飾品等(日本の勾玉も優れていた特級品)が重宝されていました。世界で最も栄えていた王国でありました。キリスト教は教会も増え「景教」と呼ばれていました。

 やがて、日本にも遣唐使の帰国船には唐の知識人・技術者だけでなく、有能なペルシャ人も渡って来たのでした。最近の発掘調査により奈良の都に木簡の遺物が発見されました。ペルシャ人を指す漢字が記されていたのです。新しい文化や律令制が取り入れられた都の役人の中にもペルシャ人が居たというわけです。
2017-05-28 001 012
スイカズラ―万葉文化館(明日香村)


 「文化」というのは、そもそもの元をたどればオリジナルは決して多くはありません。せいぜい古代の四代文明ぐらいが文化の発祥といえるぐらいでしょう。後は、アメリカ大陸のマヤ民族やネイティブ・アメリカンあたりが独自の文化でしょうか。それとあえて加えると「縄文文化」であります。

 そうなると、中国の周辺である、日本や朝鮮半島・モンゴル・ベトナムは中国の文化圏ですし、タイやインドも影響を受けている、と言えます。しかしベトナムならベトナムの文化がありますし、モンゴルにも日本にも「独自」と言われる文化があります。

 文化がその当時の先進的な国から伝わってくる際、必ず起きる変化があります。それは「流入-受容-改良」です。

 「流入」とは、日本が遣隋使・遣唐使を送ったように求めて輸入するものもあれば、中国の漢民族が満州族に征服された清の時代の辮髪のように、強制的に文化を押し付けられる場合もあります。

 そして、その流入から2世代から3世代経つ頃には、その文化が一般的になり疑問を感じないようになった頃に「受容」が完成すると言えます。

 しかし、元々他の地域の他の文化ですから、そのままでは利用しにくく、受容したもののそれを自分たちの文化や気候・生活スタイルなどに合わせて「改良」していくようになります。

 そしてこの「改良」がひとつの「形」になった時が、その民族や地域の「文化の形」ができた、ということになるのが一般的であります。そして、日本は古来より技術的な「工夫」という点においては世界に類を見ない「向上心」とその形としての「遺産」が引き継がれているとい事にこの上ない誇りを感じざるを得ないのです。
ニリンソウの花(金剛山カトラ谷)
ニリンソウ(五月)


★本日もご訪問ご拝読頂き誠に有り難うございます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

                
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ササユリ~二上山
笹百合~二上山に咲き始めました。



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