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「飛鳥」の都を支えた「蘇我氏」の血脈―――20170715-122

 七月中旬の今、古の「藤原宮跡」の蓮園には見事な蓮の花が美しく咲き誇っています。プロ&アマのカメラマン達が朝に開花する一瞬を捉えようと賑わっております。花開く早朝が好きなんですが夕焼けのの中の蓮の花も癒されるので好きなんです。ここからすぐ南東の田園風景の中には百年続いた蘇我氏四代が治めていた「飛鳥の都」がありました。
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藤原宮跡の蓮園

 古の飛鳥は蘇我氏が熱い思いで築いた王都と感じています。後年藤原氏が編纂する「日本書記」では蘇我氏を大王に成り代わろうとした悪逆の人のように描かれていますが一方的で本当とは思えません。我々は真実を見抜く目を持たねばなりませんね~。蘇我氏の命脈を歴史の流れとしてお伝え致します。
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水面(ミナモ)と蓮の花

 蘇我氏は「渡来系」の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の「職業奴属民」としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の「先進技術」が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされます。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の「物部氏」・「中臣氏」を"牽制"する為の目的も有ったと推察されます。

 6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれます。

 稲目の代になると、過去に大臣を出していた「葛城氏」や「平群氏」は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、「蘇我氏」は大連の「大伴氏」と「物部氏」にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となります。

 また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の"外戚"となっていきます(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、「稲目の妻」は「葛城氏」の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある)。

 稲目は「欽明天皇」とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の「蘇我馬子」まで引き継がれるが、「用明天皇」崩御後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を"暗殺"し、戦いで「物部守屋」を討ち"滅ぼす"と、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の"一極体制"となります。

ここから「崇峻天皇」の"暗殺"や、「推古天皇」への"葛城県の割譲の要求"、「蝦夷」による天皇をないがしろにするふるまい、「入鹿」による上宮王家(山背大兄王)の"討滅"、叔父で専制政治に反対する境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされています。

 しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論であります。

 蘇我氏は、645年の「中大兄皇子」・「中臣鎌足」らの("乙巳の変")によって、「入鹿」が"暗殺"されるとともに「蝦夷」(現在の甘樫丘地区公園のある地域に彼の邸宅があったが、その南に立派な墓もある。)が自殺するとその勢力は大幅に低下するが、あくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけにとどまらせました。

 "乙巳の変"には、傍流とされた「蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)」の子である「蘇我倉山田石川麻呂」も、中大兄皇子の"協力者"として関わっていました。石川麻呂はこの後"右大臣"に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に"冤罪で自害"し、"讒言"した弟の「蘇我日向」も大宰府に"左遷"させられました(口封じとの説もある)。しかし、他の弟である「蘇我赤兄」と「蘇我連子」は、天智天皇の時代に"大臣"(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持していました。

「連子」は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は「壬申の乱」で大友皇子側について敗れ、それぞれ流罪・自害となりました。その甥で連子の子である「蘇我安麻呂」は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、「石川朝臣」の"姓氏"を賜った。このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは連子の系統が続きました。

 蘇我系「石川氏」は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇)を輩出しました(それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。

 しかしながら、「蘇我赤兄」の"外孫"である「山辺皇女」が、「持統天皇」に排除された夫の「大津皇子」に"殉死"したり、また「文武天皇」の嬪の「石川刀子娘」が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその"身分を剥奪"される事件なども起こしています。

 角田文衛氏の説によると、「刀子娘」には「広成」・「広世」の2男があり、母に連座して両皇子の皇族の身分を奪い、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の"陰謀"とされます。

 また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である「穂積皇子」も「但馬皇女」との"密通"が露見して"左遷"されました。「穂積皇子」は、幸いにも持統天皇崩御後に「知太政官事」に出世したが、若くして亡くなりました。
 
 「不比等の正妻」は、安麻呂の娘の「蘇我娼子」(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)であります。その故を以て、その弟の「石川石足」と「子の石川年足」は嫡流の武智麻呂を祖とする"藤原南家と結びつく"ようになる。「年足」は、武智麻呂次男の藤原仲麻呂が設立した紫微中台の"大弼"としてその補佐に当たり、"中流貴族"としてなんとかその命脈を保ったのでした。

 しかし、その「藤原南家」が"藤原仲麻呂の乱"で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消しました。

 "蘇我氏の血統"は、藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた「蘇我娼子」を通して現代にも伝わっている。なお他に蘇我氏の血を残したのは、蘇我稲目の娘である「蘇我堅塩媛」のみである。その系統は蘇我堅塩媛 ― 桜井皇子 ― 吉備姫王 ― 皇極天皇 ― 天智天皇 ― (以後歴代天皇)となります。
                                 (ウィキペディア参照)

 かつて蘇我氏渡来人説も流行った事がありましたが、歴史的資料や根拠が全く無いとして現在は支持されていません。
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吉野下千本

 戦後GHQに作られた「日本史」は外国人から見た日本の歴史であり、戦後教育から目覚め押し付けられたものだとようやく気づかされました。我々は戦後七十年以上も経っている訳ですので、そろそろ日本人自身が作った捏造のない客観的な正しい歴史書を作るべきではないでしょうか。そして日本の歴史書は「日本史」ではなく「国史」で良いと思いますが如何でしょう。
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2017-06-27 001 001

ホタルブクロ

本日もご訪問ご拝読頂き誠に有り難うございます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

●先日の蛍観賞会(むろいけ園地:大阪府四条畷市)は少なかったけど蛍が観れました。
●7月18日(火)は百貝岳へ下見に行ってきます。^^(参加者は要ご連絡!)

★7月23日(日)は、鳳閣寺~百貝岳登山です。展望台は見晴らし良好です。只今募集中!!
 金曜日に下見に行って参りますが但し便乗者は無料です。(9:30-大和八木駅前南発―店にちょっと寄り道してから吉野方面金峯神社Pへ向かいます。 )P→神社から→西行庵→・・・百貝岳山頂へ→西行庵(跡 )
→神社→P→→高城山P→山頂展望台→P→→16:00-頃に茶話会又は駅前(解散)へ送迎。

★8月1日(火 )は、夕方から二上山登山&(山の上から観る)PL花火観賞会に参加しませんか~?!^^(要連絡)

8月27日(日)は「玉置山登山&最古の玉置神社参詣」へ参ります。樹齢三千年の神代杉を初めて観ますが 今からワクワクしています。皆様お誘い合わせの上ご参加下さいませネ~。^^
玉置神社
"玉置神社"

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二上山雌岳


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●みんな健康が一番!!

● 父母 にプレゼント&祖父母にも喜ばれるものは何~?! ?

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