三輪山のあけぼの

"三輪山のあけぼの"

◆朝鮮近代史―洗脳された封建思想と差別意識― ――20170626-095  
カワラナデシコ
"カワラナデシコ"

●攘夷と開国―

 大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取ったのでした。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となりました。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害しました(丙寅教獄)。

 この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領しました。

 しかし首都漢城へ進軍中に文珠山城と鼎足山城で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされます(丙寅洋擾)。

 一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまいます(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いたが(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫ったのでした。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退することになります。

●閔妃一派によるクーデター―

 大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに「攘夷政策」を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始めます。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放されました。

 一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める「勢道政治」へと逆戻りしていったのです。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなりました。

 閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し「開国政策」に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた(江華島事件)。

 開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に「日朝修好条規」(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。

●攘夷派と揺れ動く閔氏政権―

 また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていました。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)のでした。

 この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害されたのでした。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行されました。

 事変後には「済物浦条約」が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められました。壬午事変により閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になります。

 清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立し、親日開化派は孤立したのです。また混乱から国内では反乱が生じて行きます。

 1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大したのでした。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領されました(ポート・ハミルトン事件)。

 また1894年には「東学党の乱」(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結しますが、清王軍と日本は朝鮮に駐屯し続けました。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されています。

●清からの独立:「大韓帝国」成立―

 1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から「日清戦争」が勃発し、日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、「独立国」となりました。

 しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、「親露政策」を取る事になります。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)ことになります。

 自分の后が暗殺された高宗は1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は「大韓帝国」と国号を改称し、元号を光武としました。

●日本への併合と朝鮮王朝の滅亡―

 1904年になると、「日露戦争」が勃発し、日本が勝利する。1905年には「第二次日韓協約」が締結されました。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の「保護国化」を推し進めて行くのです。

 これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文でありました。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位しました。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である「純宗」が即位しました。

 1906年、日本は「韓国統監府」を置き、「伊藤博文」を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしであります。

 加えて財政支出の増大を招くことからも「併合」は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきであるということでありました。1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなりました。

 日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に「韓国併合ニ関スル条約」が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は「完全消滅」しました。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われれませんでした。

 日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こりましたが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息しました。

 客観的な真実の歴史は近現代史が最も重要であります。教育において子供達には真の歴史を学べるようになって欲しいものです。決して受験用の暗記学習でないのは言うまでもありませんが・・。お役人も真剣にしっかりやって欲しいものです。


◆朝鮮史における封建思想と身分制度の残滓(ザンシ:残りかす)―何故世界から嫌われるのか?

 韓流ブームが過ぎ去り、「チャングムの誓い」や「大王世宋」、そして、BS2で放映された「イ・サン」「龍の涙」 を見るとき、是非知っておきたいのが「 李氏朝鮮時代」の身分制度。当時の朝鮮は、世界で最も身分差別の厳しい残酷な社会だったのです。

 ドラマの歴史の時代考証やあり得ないカラフルな衣装はほぼウソと捏造に塗り固められています。なにせ「反日」の世相を反映していなければならなかった訳でしたから・・。そして嘘を真に受けたおば様方が韓国旅行にわんさか行っていました。今では(自業自得と言いましょうか)日本人も中国人も来なくなり観光地では閑古鳥が鳴いているようで隔世の感があります。

 中国の政治システムを丸ごと踏襲した李朝…”小中華”の中心はソウルにあり、 都から遠く離れた民は軽んじられました。官吏は朝鮮中央部からしか選ばれず、半島の北端や南端は、 流刑の地だったこともあって、公然と地方差別を受けていました。

 6世紀初頭、新羅に滅ぼされた半島南端”百済” の民は、1998金大中大統領が出るまで、 ずっと差別されてきた。その沖合いにある済州島は、 流人の島だったのでした。

 李朝3代の時、身分・階級に従って、着ている服の色が定められ、守らないと投獄された。韓国の歴史ドラマを見ると、 着衣で階級の上下が判別できるのです。

 身分は、大きく「良民」と「賤民」に分けられる。
■「良民」は自由な民で、納税、国役の義務を負い、 三階級に分類されます。

○両班(ヤンバン)    ・・貴族的高級官僚で、文班(文官)と
武班(武官)がある
○中人(チュンイン)   ・・科挙の試験に合格した下級役人、
技術官、医者など
○常民(=良人・ヤンイン) ・・農民が大多数を占める。商人、 職人(工夫が無く技術が育たなかったのだ! )

■「賤民」は奴隷。大多数は”奴婢(ヌヒ)” (人口のほぼ九割が奴隷にされていた異常な国だといえる。)
最も差別されたのは”白丁”・・職業、居住地、衣服にいたるまで、厳しい制限と強い差別を受けました。

 高級官僚、大百姓、金持ち商人は、奴婢を財産にし、権威の象徴として多数の奴婢を養い、下働きに使った。 奴隷ゆえに、売買・贈与・相続の対象にされた。支配階級の両班は、生まれつき血縁というだけで、能力・才能とは無縁に、地位と名誉を手に入れ、 役人に登用され、国政に携わったのでした。

 ”常民”の百姓は両班から差別され、”奴婢”は常民の百姓・町民から差別された。婢(女の奴隷)は、「日韓併合」当時まだ一人30円で、売買されていたという。(それ故に日本に深く感謝していた )

 婢は主人の所有物で、夫は持てず、生まれた子も主人の所有物になり、転売された。 奴婢の子孫は代々、奴隷の身分のままに置かれたのです。

 今日の韓国の繁栄は、在日韓国人が大きくかかわっている・・が、本国に帰ると 「ハンチョッパリ」(豚の足の半分日本人奴)と蔑まれるそうです。
  
 TVドラマでは、犯罪を侵した常民が奴婢の身分に落とされ、放牧の牛のように、 胸に焼印を押されるシーンがあったり・・。また、戦いに敗れた敵の捕虜を奴婢にして、財産にすることも行われていました。

 明治初期、日本政府は韓国に開国を迫ったが、無視された背景には、こうした朝鮮社会の門閥や、 封建身分制度が根深くあったのでした。身分制度は国政を腐敗させ、不平等社会を生み、国力衰退の主因になりました。朝鮮の社会改革が、日本の明治維新の如く行かなかったのは、 伝統的身分制度が邪魔をしたのです。
 
 奴婢制度は、1894年日韓併合当時、日本の強力な後押しを受け、「甲午改革」で 「四民平等」を宣言して、廃止されるまで続いたのでした。長い封建思想に洗脳された社会には意識変革を受け入れるには相当な年月がかかるものと思われます・・。哀しいかないまだに本質的には変わっていないのですからね~・・。^^;

 やはりというか、韓国社会は直ぐには変化を受け入れられず、現在も尚、階級差別・地域差別の意識が根強く残り、 偏見は収まってはいません。「賤民」の家系というだけで、結婚・就職の障害になっているそうなのですから・・。

 日本人にも、潜在意識の中に、朝鮮人を見下し差別する意識があり、 朝鮮人への優越意識が存在するのは否めない・・小中学生の頃、クラスに在日 の女子生徒がいましたが、「朝鮮、朝鮮とパカにすんな~」 と囃し立てられ、いじめられ、可哀想に思ったものです。各地の川沿いなどには掘立小屋が建っていて、自分とこも貧しい(当時の勉強机はみかん箱でした・・ )からでしょうか遊び友達もいました。しかし、一方で喧嘩好きな奴らはよく群れて喧嘩をしていました。


★本日もご訪問ご拝読頂き誠に有り難うございます。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
2017-06-13 001 016

神秘的な神代杉

上:どくだみの花
下:神秘的な神代杉(玉置神社)

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